ランダムドロップのためのアーキテクトパターン

$PointOfGet=mt_rand(1, 100);
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5=>array(‘McardID’=>6,’Seq’=>5,’Probability’=>80),
6=>array(‘McardID’=>7,’Seq’=>6,’Probability’=>90),);
$getcard=null;

foreach ($getablecarddata as $value) {
if($PointOfGet <=$value[‘Probability’]){
$getcard = $value;
break;
}
};

意見表明の自由と人間の幸福 J.S.Mill, “On Liberty”

We have now recognised the necessity to the mental well-being of mankind (on which all their other well-being depends) of freedom of opinion, and freedom of the expression of opinion, on four distinct grounds; which we will now briefly recapitulate.

First, if any opinion is compelled to silence, that opinion may, for aught we can certainly know, be true. To deny this is to assume our own infallibility.

Secondly, though the silenced opinion be an error, it may, and very commonly does, contain a portion of truth; and since the general or prevailing opinion on any subject is rarely or never the whole truth, it is only by the collision of adverse opinions that the remainder of the truth has any chance of being supplied.

Thirdly, even if the received opinion be not only true, but the whole truth; unless it is suffered to be, and actually is, vigorously and earnestly contested, it will, by most of those who receive it, be held in the manner of a prejudice, with little comprehension or feeling of its rational grounds. And not only this, but, fourthly, the meaning of the doctrine itself will be in danger of being lost, or enfeebled, and deprived of its vital effect on the character and conduct: the dogma becoming a mere formal profession, inefficacious for good, but cumbering the ground, and preventing the growth of any real and heartfelt conviction, from reason or personal experience.

 

J.S.Mill “On liberty”,pp.49-50(pdf)(岩波文庫 塩尻・木村訳pp.107-108)

排除と包摂:人類学機械

人間/動物、人間/非人間といった対立項を介した人間の産出が、今日の文化において賭けられているかぎり、人類学機械は、必然的に排除[エクスクルジオーネ](つねにすでに拘留でもある)包摂[インクルジオーネ](つねにすでに排除でもある)によって機能している。事実、まさに人間がそのつどそのつどつねにあらかじめ前提とされているからこそ、人類学機械は、一種の例外状態、つまり外部が内部の排除でしかなく内部が外部の包摂でしかないような未確定の領域を現実に生み出すのである。

おそらくこれは、近代人の人類学機械だろう。人類学機械は――これまで見てきたように――すでに人間であるものを(いまだ)人間ならざるものとして自己から排除することによって作動している。つまり、人間を動物化し、人間のうちから非人間的なもの、すなわちホモ・アラルス、あるいは猿人を分離することによって作動しているのである。また、われわれのの研究領域を数十年先にすらしてみるだけでいい。そうすればわれわれは、こうした無害な古生物学の発掘資料の代わりに、ユダヤ人を、いいかえるならば、人間のうちに生み出された非人間を、あるいは新死体[ネオモール]や過剰昏睡状態(注27)を、すなわち、同一の人体のうちで分離された動物を手にすることだろう。

 

ジョルジョ・アガンベン(岡田温司訳)『開かれ』,平凡社ライブラリー,pp.69-70

p.169 注27:新死体とは(中略)法的には死体だが(中略)臓器移植に有効な生命の特徴をもった臓器提供者の身体(脳死状態の身体)のこと。また、過剰昏睡状態とは、(中略)伝統的な昏睡が、外界と関係する生命機能(意識、運動性、感覚性、反射)の喪失や、植物的な生命機能(呼吸、血液循環、体温維持)の保存によって特徴づけられるとするならば、この新しい過剰昏睡とは、「外界との関係に関わる生命機能が全面停止する上に、植物的な生命機能も障害をきたすどころか全面停止する」昏睡、つまり、新しい蘇生技術(人工呼吸、血液循環の維持、体温調節)における昏睡のことである。(以下略)

※原文のルビは[]にいれ、原文の()はそのまま用いた。

※訳者あとがき「アガンベンの身振りと修辞」では「排除とは、すでにしてつねに包摂を前提し、包摂とはすでにしてつねに排除を前提としている」(p.218)といいなおされる。

※「すでにつねにimmer schon」ということばはハイデガーがよくもちいる。表現を緩めるのなら、「気づいたときにはもういつもそうなっている」ようなことだろうか。

 

関連:人工物の政治性

人工物の政治性

アメリカの技術哲学者ラングドン・ウィナーは、『鯨と原子炉――技術の限界を求めて』(紀伊国屋書店、二〇〇〇年)のなかで人工物がそれ自体として政治的な性質を持つことを指摘し、技術の有する政治性に警鐘を鳴らした。政治的な人工物には二つの種類がある。一つは、特定の政治的意図の実現を目的として設計・製造されたものである。例えば、ニューヨークのロングアイランドの公園道路にかかる陸橋は、貧しい人々や黒人の流入を防ぐために、その下を公共バスが通れないような高さで設計されている。もう一つは、特定の社会構造なしには成立しない技術である。例えば、ウィナーによると核兵器や原子力発電などの技術は権威主義的な社会構造を要求する。これらの技術の政治的作用は隠れた仕方ではたらく。一見したところ人工物は道具的な目的を達成するための中立的な手段のような外見を与えながら、人々に気づかれないような仕方で特定の社会的秩序や権力構造を実現しているのである。このような技術の隠れた政治性を暴露することは、技術哲学の重要な課題のひとつとなっている。

 

村田純一編『知の生態学的転回 第2巻 技術 身体を取り囲む人工環境』p290, 生態学的転回を知るための用語解説

※太字はsakaiによる。

※公園のベンチの真ん中にある手すりや、新宿の地下道の両脇にある上面が斜めになった物体とホームレスとの関係なども考えてみましょう。いわゆる「意地悪ベンチ」というものらしいです。

※意地悪ベンチについては関根康正氏の命名らしい。「ストリートの人類学」の提唱 ストリートという縁辺で人類学する(pdf)等を参照のこと。

※webサイトの配色と色弱、あるいは登録フォームの性別に何を表示するかといったことになると、まったく意図しないままに私たちの作るものにも政治性が組み込まれてしまうということに気づくことでしょう。

※包摂はつねに排除とそのものである(包摂と排除:人類学機械

そのたびごとに、ただ一つ

20130913156

Photo:2012/08/05 17:46 Niijima/Tokyo

 

「他者の死とは、世界の終焉である」

 

『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉』というデリダの本がある。バルト・フーコー・アルチュセールといった「友」と「時代」にあてられた、追悼文を集めたものだ。この本のなかでデリダは、「他者の死とは、世界の終焉である」と述べる。彼/彼女の世界が終焉に達するというのは「世界死」。彼/彼女の死はそのたびごとに、ただ一つの、「世界死」だ。

この世界死については、ここを読めば非常によくわかる(というか、デリダの『そのたびごとに〜』に出会ったのもその記事がきっかけだ)ようになっているので改めてまとめ直すことはしない。僕はここで、「そのたびごとにただ一つ、世界の終焉」というひとつのことばから、別の思考に架橋するために、いくつか書き置きをしておこうと思う。

 

 

 

連続創造説、という考え方が中世、トマス(あるいは、アウグスティヌスにまでさかのぼることもある)以来のキリスト教神学にある。世界が一瞬一瞬滅びさって、次の瞬間には神がまたつくり直しているという、ちょっと不思議な考え方。

世界は、却って、神がそれの存在することを意志する、まさにそれだけのあいだ存在する。世界の存在ということは神をその因としてこれに依存するからである。

トマス・アクィナス『神学大全』第一部 第 46 問題 第一項

デカルトの神の存在証明等にも出てきて、その文脈で知っている人もいるかもしれない。

私の一生の全時間は、無数の時間に分割することができ、しかもおのおのの部分は残りの部分にいささかも依存しないのであるから、私がすぐまえに存在したということから、いま私が存在しなくてはならないということは帰結しない。そのためには、ある原因が私をこの瞬間にいわばもう一度創造するということ、いいかえれば、私を保存するということ、がなければならないのである。

ルネ・デカルト『省察』第三省察

ここでいうある原因とは、神のことだ。一瞬一瞬、世界は滅び去り、そのたびごとにまた神の力によって作り直される。ずいぶんと忙しいことをする神様である。

デカルトの影響を受けた哲学者、マルブランシュは「被造物の保存は、神の側からすると連続的創造にほかならない」とあからさまに述べている。(彼のいう機会原因論は神の常なる関与を必要とするので、そういった結論に至るのも必然である)。

仏教の概念で語るなら、この一瞬一瞬の生成消滅は「刹那滅」ということになる(それを支える神はいないのだけど)。

 

「いま」が次の瞬間にはなくなっていて、その次の瞬間もまたすぐに滅びさっていって、みたいな「神抜きの」言い方にすれば、いくばくか共感してくれるひともいるかもしれない。

 

 

 

 

デリダからバルトへ。

私にはまず、つぎのことがわかった。「写真」が数かぎりなく再現するのは、ただ一度しか起こらなかったことである。「写真」は、実際には二度と再び繰り返されないことを、機械的に繰り返す。

バルト『明るい部屋』p.9

滅び去った世界の光画。そのたびごとに、ただ一つの瞬間が死に絶える、それをつなぎ止めようとするシャッターボタン。『明るい部屋』の冒頭を読むたび、そして、自分の撮った写真のなかの「あなた」をみるたび、そんなイメージでいっぱいになる。

「あの日のきみ/わたし」の死に絶えたあとの世界。

「あの日のきみ/わたし」を包み込んでいた光。

「あの日のきみ/わたし」の光を記録した化学的(あるいは電子的)作用。

「あの日のきみ/わたし」を唯一架橋する「写真」。

 

さて、どこに着地しようか、というところだけど、今回はどこにも着地しないで終えようと思う。

ある人とであって、『明るい部屋』を読み直すことにして、ページを開いて初っ端に思ったことを書き留めようと思った(というか、書かなければ読み進められなかった)、それだけ。

まあ、それだと「架橋しよう」という試みとしてはあまりにも中途半端なので、『明るい部屋』を読み解くなかでまた雑文を書いてゆこうかと思っています。

 

それでは。

 

 

追記:

連続創造説について

カントと連続創造説(PDF)という論文がわかりやすいのではないでしょうか。この記事でも参考、というか孫引きしました。孫引きクソ野郎です。

 

今年の目標

IMGP9146

Photo 2014/1/1 11:38 Tachikawa/Tokyo

 

大目標

・習慣という怪物を乗りこなすこと。

・「みずから結ぶ」ことを恐れないこと。

・自尊心をもつこと。

 

小目標

・0時には寝る。6時には起きる。

・昼夜逆転しない。

・ベッドの上でスマートフォンをいじらない。

・カフェインは控える。

・お酒も付き合いのときだけ。

・ストレスを過食でなんとかしようとしない。

・卒論をちゃんと書き上げる。

・身だしなみをちゃんとする。自尊心は見た目から、らしい。

・コミュニケーション能力のうち、訓練や知識習得でなんとかなるものはなんとかする。

・「ありがとう」をちゃんという。

 

こんなかんじかな。ごくシンプルで、でも、大切なことから。

 

もう一度、始めてみます

なんどか作っては三日坊主になっていたブログですが、もう一度はじめてみようとおもいます。

 

昨年はたくさん考え事をして、いくばくかその考えごとに疲れきってしまうこともありました。

考えること、あるいはもっといえばことばそのものと適切につきあうために。そんな道具としてここを使っていけたらと思っています。

主なトピックとしては、哲学のこと、写真のこと、私のこと、関係性のこと、日々のこと、その他諸々、といったところでしょうか。

 

あまり型はつくらず、ゆっくりとやって行けたらと思っています。