8/22-23 戦後日本住宅伝説、『西の魔女が死んだ』

Twitterをやめたので(といってもひと月以内に復活してしまいそうなのだけど)、日記を書いてみようと思う。

8/22(金)

朝からバイト。うまく眠れずに寝不足だったけれどもなんとかこなす。コーディングと文章作り。

昼休みに上司とピザを食べにゆく。出会い系であったという大変なメンヘラさんの話をきく。来週上司が死んでたら困っちゃうな、と思いつつ、いままで会ってきたメンヘラめいた人々が「まだまし」だったと思い出す。

帰ってからすぐに寝てしまい、起きたのは日付が変わった頃だった。

お風呂に入り、朝の残りの炊き込みご飯を食べる。ゲームをしつつラジオを聞きつつ『西の魔女が死んだ』を読み終える。文体の心地よさ、描く世界の心地よさに、どこか胸が苦しい。

8/23(土)

5時くらいに寝直し、起きれば12時。外にでる支度をして、板橋駅から北浦和へ。埼玉県立近代美術館で『戦後日本住宅伝説』と、常設展示室の二番目の部屋の荒川修作の絵とを観る。読むように見ること。かつて一度だけきたことがあって、そのときも常設展示室の二番目の部屋に長くいた。明るい部屋に抽象絵画。

美術館を出て、公園にあるカプセルタワーのカプセルを観ようか、と思ったけどやめて駅のほうへ向かう。夏休み後半の、気温だ、と思う。

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適当に検索して出てきたカフェに向かうもclosedの文字。窓の隙間から人の気配は見えたものの。
駅の反対側に向かって見つけたカフェで二時間ほど本を読んで過ごす。

帰りの電車からの空色が少しちがって見えたこと。異化、Остранение。
京浜東北線が川を越えるとき、いつだってどこか懐かしいのは地元の風景に似ているからだろうか。川のある街を思う。

しあきたし、ぜつぼうごっこはやめにしておとといからの食器を洗う/笹井宏之

「ぜつぼう」にゆっくり殺されていることもあって、でも「絶望」になりきれない。そんな哀しい可笑しさ。

むこう

暑いね、といううちに
お隣さんは昨日引っ越していったよ

たとえば、
見えたって見えないものを
みるということ

目まぐるしい物はビルの谷間を泳いで

わたしは雲の切れ間に飛び込んで

あの子はきっとサイダーの海を泳いでる

涙の色はライトブルー

レールの上はどこまでも

信号が青に変わる

駆け抜けて
駆け抜けて
道の晴れ間
コンクリートの滑走路
空に描いてゆく罫線

二〇一二年二月二十二日

2014.5月の短歌

もうすっかり詠まなくなってしまったけどほそぼそまとめる。

ちゃんと詠まないし読まないからあんまし進歩がない。

 

14

ふと指のあいだを零る この水は夏のさきがけ夏のきらめき #tanka

posted at 11:56:24

皐月日は緑を透かし抱きおり細身の柄の日傘は揺れて #tanka

posted at 13:06:41


15

いつの間に、と思う。過ちの深さだけひとりのベッドに沈み込みゆく #tanka

posted at 00:28:25

たましいに触れた気がした.com 風ひとつ吹く午後のさよなら #tanka

posted at 00:38:12

空色を教えてくれたはずなのにいまはもう世界中が鳥籠 #tanka

posted at 00:53:43

忘れたふりをしながら抱き寄せるように日々のほとりに夕焼け満ちて #tanka

posted at 01:04:36


22

ざらついてしまった明日の行方とか沖縄の空に流していたい #tanka

posted at 00:03:02

繋いでも迷子のままでいてしまう掌の温度がわからない #tanka

posted at 00:16:58

逆上がりすれば昼下がり飛び立って あなたはスカイブルーを知ってる #tanka

posted at 00:25:45


23

初夏に乙女は恋を拗らせてグッドメンヘラ・バッドメンヘラ #tanka

posted at 22:32:10

卒論題目検討・第一夜:生権力論—開かれ・動物—

卒論を書かねば。

 

テーマを決めねば。キーワードと関連する主要文献を書き出し、問題を素描する。この作業を数日かけて数分野でやり、どのテーマで書くか決める。すでに書いた記事にも自由に書き足す。

 

 

第一夜は生権力論。

ミシェル・フーコー、ジョルジョ・アガンベンの系譜。

 

問題点として、文献がフランス、イタリア。。

 

K.W.

生権力、人間と動物、『形而上学の根本諸概念』、『開かれ』、ユクスキュル

生政治、統計学、公衆衛生、ゾーエー、ビオス、アウシュビッツの残り物

アガンベン、フーコー、ハイデガー、カンギレム、バシュラール

いのちの弁別、脳死・臓器移植、バイオエコノミー、尊厳死・安楽死、小松美彦、金森修、死の自己決定権、死の所有、出生前診断

死の共鳴、分人

 

Q,

アガンベンに流れ込む思想の整理(フーコー、ハイデガーをいかに解釈・改釈したか)

フランス・エピステモロジーと権力、規範

死の所有について(一ノ瀬、小松)。これはまだ下調べが足りない

臓器移植と「借りの哲学」

 

 

 

 

無力さにとらわれぬように。

なにができて、なにができないかを知ること。

 

『貸しの哲学』と『ワードマップ現代形而上学』を読み進める。

前者はいままで考えてきた、生の共-生成と重ねながら。

 

梅雨の時期っぽいので防湿庫を注文する。

 

そういえば、アルバム編集会にストロボスタンドがヨドバシから届いて、早速活躍していた。強い。

 

 

今日もがんばった。明日もまたぼちぼちがんばろう。

 

 

ただ生きている、ということはできなくて

だから、僕らはどうしようもなく生活をしないといけない。お洗濯はめんどうね。

昨年から自炊をしなくなっていたの、どうやら業務スーパーが近くにない家に引っ越したから、というのが主な理由だったらしい。今日久々に自炊して、自炊って楽しかったよな、と思い出す。

 

Lのブログを読む。

文化・文明という語について、かつて市野川先生の授業を一学期間受けてたときのことを思い出す。ラテン語、ギリシャ語、中世、近代、そして日本への輸入。言葉はそのなかで歴史的意味空間を育んできた。文明・文化はそのなかでときに逆の意味になったりもした。資料をしまい込んでしまったけど、たぶんあの本棚のファイルのなか。そのうち読み返そう。

「特定の暴走に焦点をあて」、の部分で直接的に刺されてしまう。私はそういうのを「安らぎに満ちた破壊力」ということばで名指してきた、そういう刺し方。

 

Aのブログを読んだ。

「真っ直ぐふらふら生きたいなあ。」って、ほんとうにそれ。

適切に他人に肯定してもらって適切に自分を肯定できるようになればいいのだけど。がんばろうとしてるひとは素敵。

最近自分はあんましがんばれてなくって、ちょっとダメ。

 

そういえば、いろいろなものを乗り越える過程でぼくは何をしてきたっけか、と考え思い出ししているのだけど、ほんとうに一日がんばればできたことを、「引き延ばし」まくって、いちばん大切だった人との信頼関係を壊して、それで連絡できずにフェードアウトしたんだなって思い出す。いまもあの子は元気そうだけど、きっともう会えない。

失った痛み、というのは劇薬すぎるし、大切なものを失わずに成長できるみちがあるのなら、きっとそれを選ぶべきだろうなって。

 

クロスバイクが欲しくていくつか検索するけど、難しい。

自分の欲望のかたちはわからないもので、たとえば最近髪を切ったのだけど、そのときも美容師のお兄さんに、前回と同じくらいで、としかいえなかったりする(でも今回は前髪は整える程度にしてもらってあまり短くしなかった、くらいの違いはある)。なりたい自分、というの、強く思い描くのはほんとうに難しい。

 

 

 

今日も低空飛行。ちゃんと講義いってバイトもしたから許してほしい。おやつは食べ過ぎた。やせたい。やせよう。

 

 

2014.05.19

昨晩は五月祭の疲れもあってか随分と早く寝て、今日は10:00過ぎに起きた。

 

始発に乗って海にゆこう、という昨日の思いはまどろみのあわいに流されていってしまったので、ベランダで乾いたバスタオルを回収し、部屋干ししていた明るい緑色のシャツやら下着やらをとってシャワー室へ向かう。

 

そういえばこのちょっと浮かれた色のシャツは数年前、通っていたリハビリ施設の理学療法士のお兄さんからいただいたものだったな、と思い出し、そのころ隣にいた恋人のことを思い出す。その恋人はいまでは地元である男性と結婚していて、(といっても結婚は数年前のことだ)、結婚以来あげられていなかった式を来月やるのらしい。結婚のときもおめでとう、とはいえてないし、たぶんずっといえないままなのだろうけど、ともあれ幸せそうでなにより。化粧したほうがもっとかわいくなれるはずなのだけど、ということをFBをみるたび思う。旦那の意向でさせてもらえないのだとか。

 

さて、思い出してばかりもいられないので適当にかばんにものをつめて学校に向かう。天気はもう初夏のにおいがする。途中、自転車の後輪から空気が抜けきっていることに気づき、空気を入れに家に戻る。

 

学校には12:00前につく。アルバム編集会の部屋に向かい、サークルの集合写真撮影を手伝う。業務はごく簡単なもので、人手も足りていた。アルバム委員が撮る写真はデータとして渡したりはしないので、個人的に欲しい人は私物のカメラを編集委員にわたして撮る、というかたちになっていて、私はその皆さんの私物カメラで撮影する役をやっていた。コンデジは軽くていいな、と思ったり。最近はデジタルカメラならどんなカメラでも初見でそれなりに操作できるようになってきた、と思う。

 

撮影が終わって、編集室に戻る。ローソンストア100で買ってきたメロンを食べた。それを見た会長もまたメロンやら焼きそばやらを食べたいというので、それらを買ってくるついでに振込やら両替やらの業務を済ます。

 

Twitterをながめていると、どうやら友人が本郷にいるらしいのでSMSを送るも、別の友人といるとのことなので合流はやめておく。

 

ふらふらしつつ生協の書籍部で『ワードマップ 現代形而上学』を買う。哲学科の人たちも何人か話題にしていたような。現代形而上学の主要論点がクリアーにまとめられている。5限までにぱらぱらと読み進めていた。なんだかんだでいままで哲学科の講義のなかであつかってことがほとんどだが、「哲学科でやってるはなしも一応現代哲学の先端にあるんだな」とか思ったり、思わなかったり。

 

五時間目は熊野先生の講義。ライプニッツ。実は二度目の履修。前回はレポートをさぼって単位を取りこぼしたので、その回収ともろもろの復習がてら。先ほどの友人と授業で一緒になるものの、バイトがあるというので授業後はあまり話す暇もなく解散。

 

その後、生協で夕食を食べ帰宅。途中、西友でウォトカとウイスキーとつまみを適当に購う。ウォッカのことをウォトカというのは米原万里からの影響だった。ちかごろはもう読み直していないが、ソビエト・東欧雑貨に未だ心躍るのは彼女のエッセイのおかげだろう。本郷三丁目駅の近くにある雑貨屋ミッテはそういったものが充実していた。五月祭とかぶっていけなかったが、京王閣で開かれていた蚤の市にも出店していたかもしれない。

 

こんな一日だった。

あとはウォトカを飲みつつ読み物を書き物をして一日を終える積もり。

 

 

 

 

愛はコンビニで買えますか?

たぶん四ヶ月ほど前の書き物。ひとり気に入ってくれた方がいたので、ここに保存しておいてみる。

 

 

 

 

向かい合わせの席で、彼らはそれぞれ書き物をしている。
鉛筆と紙の音で満たされた静寂に、彼がつぶやく。
「買えたらいいね」
「なに?」
「愛」
そう言いながら、首を彼女に向け、
「コンビニで愛、買えたらいいねって」と彼は言う。

「なんで」
彼女は原稿用紙に顔を落としたままだ。
「だって、便利じゃん」
「――その愛は自分で使うの?誰かにあげるの?」
彼女は怪訝そうに言う。
「自分で」

「そう――、それじゃあ、なにもわかってない」
「どうして?」
ひと呼吸して、原稿用紙に文字を走らせていた彼女の手が止まる。
「――愛するものや相手があって、はじめて愛って存在するものよ」
そして、顔を上げてこう言う。
「だから、コンビニで売ってる愛はきっと君を向いてくれない」

 

 

 

 

 

書き物の練習をしたいのでhttp://ask.fm/sakai_cykになにか投げてくださるとうれしい。

「新宿は、夜行バスで旅立つひとを見送る場所だ。」

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Photo : 2014.02.23 11:04:44 Shinjuku / Central Park

 

「Twitterは毒よ」、と君は言った。
「大切なことも、なにもかも細切れにしてしまう。忍耐のない君は、ひととおり書き終えてしまえばそれで放りだしてしまう。もっとことばを尽くさないといけないことであっても、ね」

 

しばらくはふぁぼるだけのアカウントになろうと思う。つぶやきたくってうずうずしちゃうのだけど、我慢。

ブログをちゃんとやろうと思う。

 

 

 

 

ひとつの街は、それぞれのひとにとって、違った見え方をしている。君と私とで、同じように見えている部分もあれば、ちがうように見ている部分もある。

 

どこだっていいのだけど、たとえば、新宿、という街について考えてみよう。(吉祥寺だって、鎌倉だって、神戸だって、広島だっていいのだけど、私にとってのいくばくかの記憶があることが大切だ。)
新宿はとてもおおきな街。西側と東側でずいぶん様子もかわっている。わたしがよく行く場所も、君がよく行く場所もきっとちがう。通る道も、JRの出入り口も。君は新南口をよく使うかもしれないし、私は東口をよく使うかもしれない。あるいは、新宿にはほとんど来たことがない、なんてことでもいい。

馴染み深い街かも知れないし、物語の中やテレビのなかでしか知らない街かもしれない。

 

 

ともあれ、ここで大切なのは、「ひとつの場所が多様な、あまりに多様な意味を含んでいる」ということだ。
こういった、多様な意味の含まれている場所について、ただ「新宿」といっただけではあまりに、その輪郭はぶれ・ぼけまみれになってしまう。
しかし、このような場所と意味のあり方は、かえって面白い事態を生み出す。

 

 

「多様な視点を、多様なままに捉えること。」
「多様な視点を多様な場所から重ねること。」

 

全体をいちどに見渡そうとするのではなく、たくさんの視点を、そのままにかさねあわせること。
「いちどに見渡そう」とすることはたいていの場合、失敗する。地図が描き出すような「無限の遠さから描き出されるような、平面」というのは、私の、君の見た風景をまったくふくんではくれない。

そうではなく、私の、君のみた風景から出発すること。

 

 

たとえば、
「乗り換えなんてすぐに慣れるよ。」

 

たとえば、
「新宿は、夜行バスで旅立つひとを見送る場所だ。」

 

たとえば、
「新宿は豪雨。」

 

たとえば、
「バイトのおわり、西武新宿駅で。」

 

たとえば、
「東南口で待ってる。」

 

 

 

「乗り換えなんてすぐに慣れるよ。」
高校のころ、初めて「東京」にきて、一緒にいた先生はそういっていた。たしかに慣れてしまったのだけど、あのころの、あの

「東京の鉄道のめちゃくちゃな感じ」はいまでも覚えていて。

 

 

「新宿は、夜行バスで旅立つひとを見送る場所だ。」
最後に夜行バスで旅立つ人を見送ったのは去年の秋のことだった。バスの発着所の近くのカフェには旅立つ人たちが思い思いのときをすごしていた。遠い場所へ、深夜旅立つ乗り物というのは、それだけでいくばくか物語めいている。見送ったあと駅まで歩く。夜の空気が心地よかったことと、都庁前でサックスの練習をしていた人がいたことを覚えている。

 

 

「新宿は豪雨。」
あなたはどこへやら。ここから遠い街で、よく歌っていた。そのころまだ新宿はおはなしのなかの街でしかなかった。

 

 

「バイトのおわり、西武新宿駅で。」
彼らの使う駅は、僕のいつも使う駅より北のほうにあって、いくばくか、僕の新宿からは遠い場所にあった。

傘を探して池袋を歩き回ったあと、新大久保から歩いて向かった。

 

 

「東南口で待ってる。」
埼京線からおりてきて、その出口以外まともに使えないという子との待ち合わせはたいていそこで、よくルミネ2にいく。

すこし歩くと、路上ライブがよく開かれている通りがある。

まだ高校生だったころ、大学のオープンキャンパスで上京して、新宿を歩き回って、タイムズスクエアで友だちと迷子になっていたこともあった。

 

 

 

こうしたひとつひとつの言葉は、「新宿の全体性」をとらえはしない。しかし「新宿は、夜行バスで旅立つひとを見送る場所だ。」といったことばは、全体性を捉えようとする言葉よりも、豊かに新宿のことを語ってくれたりする。

 

 

「新宿は、夜行バスで旅立つひとを見送る場所だ。」で捉えられる新宿には、たくさんの外部がある。しかし、むやみに全体の地図を描こうとした言葉より、ずっと満ち足りている、と、少なくとも私は思う。

 

 

きっと、必要なのは、具体的な言葉から出発することだった。

 

 

「都市=きみはいつだって私の言葉をすり抜けてゆく。私はそのたびごとに都市=きみに新たに出会う。」

 

 

 

 

 

しりきれとんぼ。

いくばくか、思考の細切れな感じはぬぐえない。
リハビリが必要ですね。