そのたびごとに、ただ一つ

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Photo:2012/08/05 17:46 Niijima/Tokyo

 

「他者の死とは、世界の終焉である」

 

『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉』というデリダの本がある。バルト・フーコー・アルチュセールといった「友」と「時代」にあてられた、追悼文を集めたものだ。この本のなかでデリダは、「他者の死とは、世界の終焉である」と述べる。彼/彼女の世界が終焉に達するというのは「世界死」。彼/彼女の死はそのたびごとに、ただ一つの、「世界死」だ。

この世界死については、ここを読めば非常によくわかる(というか、デリダの『そのたびごとに〜』に出会ったのもその記事がきっかけだ)ようになっているので改めてまとめ直すことはしない。僕はここで、「そのたびごとにただ一つ、世界の終焉」というひとつのことばから、別の思考に架橋するために、いくつか書き置きをしておこうと思う。

 

 

 

連続創造説、という考え方が中世、トマス(あるいは、アウグスティヌスにまでさかのぼることもある)以来のキリスト教神学にある。世界が一瞬一瞬滅びさって、次の瞬間には神がまたつくり直しているという、ちょっと不思議な考え方。

世界は、却って、神がそれの存在することを意志する、まさにそれだけのあいだ存在する。世界の存在ということは神をその因としてこれに依存するからである。

トマス・アクィナス『神学大全』第一部 第 46 問題 第一項

デカルトの神の存在証明等にも出てきて、その文脈で知っている人もいるかもしれない。

私の一生の全時間は、無数の時間に分割することができ、しかもおのおのの部分は残りの部分にいささかも依存しないのであるから、私がすぐまえに存在したということから、いま私が存在しなくてはならないということは帰結しない。そのためには、ある原因が私をこの瞬間にいわばもう一度創造するということ、いいかえれば、私を保存するということ、がなければならないのである。

ルネ・デカルト『省察』第三省察

ここでいうある原因とは、神のことだ。一瞬一瞬、世界は滅び去り、そのたびごとにまた神の力によって作り直される。ずいぶんと忙しいことをする神様である。

デカルトの影響を受けた哲学者、マルブランシュは「被造物の保存は、神の側からすると連続的創造にほかならない」とあからさまに述べている。(彼のいう機会原因論は神の常なる関与を必要とするので、そういった結論に至るのも必然である)。

仏教の概念で語るなら、この一瞬一瞬の生成消滅は「刹那滅」ということになる(それを支える神はいないのだけど)。

 

「いま」が次の瞬間にはなくなっていて、その次の瞬間もまたすぐに滅びさっていって、みたいな「神抜きの」言い方にすれば、いくばくか共感してくれるひともいるかもしれない。

 

 

 

 

デリダからバルトへ。

私にはまず、つぎのことがわかった。「写真」が数かぎりなく再現するのは、ただ一度しか起こらなかったことである。「写真」は、実際には二度と再び繰り返されないことを、機械的に繰り返す。

バルト『明るい部屋』p.9

滅び去った世界の光画。そのたびごとに、ただ一つの瞬間が死に絶える、それをつなぎ止めようとするシャッターボタン。『明るい部屋』の冒頭を読むたび、そして、自分の撮った写真のなかの「あなた」をみるたび、そんなイメージでいっぱいになる。

「あの日のきみ/わたし」の死に絶えたあとの世界。

「あの日のきみ/わたし」を包み込んでいた光。

「あの日のきみ/わたし」の光を記録した化学的(あるいは電子的)作用。

「あの日のきみ/わたし」を唯一架橋する「写真」。

 

さて、どこに着地しようか、というところだけど、今回はどこにも着地しないで終えようと思う。

ある人とであって、『明るい部屋』を読み直すことにして、ページを開いて初っ端に思ったことを書き留めようと思った(というか、書かなければ読み進められなかった)、それだけ。

まあ、それだと「架橋しよう」という試みとしてはあまりにも中途半端なので、『明るい部屋』を読み解くなかでまた雑文を書いてゆこうかと思っています。

 

それでは。

 

 

追記:

連続創造説について

カントと連続創造説(PDF)という論文がわかりやすいのではないでしょうか。この記事でも参考、というか孫引きしました。孫引きクソ野郎です。

 

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